登川誠仁さんとの出会いは、琉球民謡ではなくこの映画である。
そのせいか、その後、ドキュメンタリー映像や、それ以外の所で見る登川誠仁さんがどんなキャラクターであろうとも、この映画で登川誠仁さんが演じた恵達というキャラクターのフィルタを通してこの偉大なアーティストを見ていた。
いや、映画というのは実に恐ろしい。
ということで、もう何回目になるかわらないこの「ナビィの恋」なんだが、物語の骨子となる部分は、現代(奈々子と福之助)と昔(ナビィとサンラー)の対比がたくさん散りばめられている。
で、この対比の軸、時代の違いを繋ぐ点となっているのが恵達である。
特に象徴的と思われる箇所を列記してみるが、ネタバレありなので要注意。
- 映画開始早々で内地から船に乗って島に帰ってくる奈々子(西田尚美)と、終盤に船に乗って島を去るナビィ(平良とみ)
- 内地からやってきた福之助(村上淳)と結婚する奈々子と、(ユタのお告げで)島を追われたサンラー(平良進)と別れさせられたナビィ。(ブラジルに移民した)サンラーはよそ者であることも象徴していて、同じく内地からやってきたよそ者(ヤマトンチュ)の福之助と対比されている。
- 恵達(登川誠仁)は、三線を弾く伝統を愛するところもあるが、敗戦後の沖縄に訪れた米軍(アメリカ人)から得た合理的精神の持ち主というキャラ。三線でアメリカ合衆国国歌「星条旗」を弾くところが象徴的。 ((沖縄のジミヘンという異名とも掛かっている))
- 恵達は合理的精神の持ち主なので、ユタの云うことは信じていない。ナビィとサンラーの件で親戚一同がユタを呼んで集まった席でフザケているところなんかが象徴的なシーン。
- ナビィの腰の具合が悪いのは、ユタが云う「先祖が怒っているから」、なーんてことはなく、ただ具合が悪いだけだ、ということでマッサージチェアを購入するところも、恵達の合理的精神の現れ。
- ナビィがサンラーを慕って島を離れても、ユタが云う「先祖が怒って一族が絶える」なんてことも起きない。だから気にしないでサンラーのもとに行っても良いんだよ、という恵達のメッセージもマッサージチェアには込められている。
- マッサージチェアを買うために、ナビィが可愛がっている牛の花子を手放すのは、ナビィがいなくなることを了承しているという恵達のメッセージ。
- 最後の結婚式のシーンで時代が流れ、奈々子と福之助が子供を抱いて&奈々子のお腹が大きいのは、ナビィが去っても一族が反映しているということ。
- (遠い国である)アイルランド人のオコーナー ((アシュレイ・マックアイザックは著名なフィドル奏者))が麗子を追っかけて粟国島に来たのは、サンラーとナビィのエピソードと今の時代ではそれが許されるという違いが重なっている。なお、アイルランド人のオコーナーという選択は、アイルランドとイギリス、沖縄と日本という国としての立ち位置、劇中で使われるケルトミュージックやアイルランド民謡と沖縄民謡、弦楽器としてのフィドルと三線という類似性からきているように思う。
- 奈々子に心を寄せるケンジ(津波信一)については、現代の恵達である。つまりサンラーは福之助。時代が時代なら、奈々子は愛する福之助と一緒になれず、ナビィと恵達のように好きな人ケンジと一緒になっていたという裏側のエピソードに繋がる。
時々、「ナビィが恵達を捨ててサンラーと一緒に島をでるのがケシカラン」的な感想をネット上で見るのだが、恵達とナビィの馴れ初めから振り返ると、劇中でも描かれているが、恵達はナビィにとっても感謝しているわけだ。
「(こんなに長く)一緒にいてくれてありがとう」と。
いつかサンラーが現れてナビィを連れて行ってしまうだろう。その時までで良いからナビィと結婚して一緒にいたい。
これがナビィに求婚した時から変わらない恵達の想いだったんだと思う。
だから、恵達を置いていってケシカランというのはまったく的外れな受け取り方だと思うし、エピソードの積み重ねをちゃんと受け取れば、そういうありきたりな恋愛感情・構造を中心とした世界観を描いている作品ではないということはおさえておきたい。
で、この映画を良い映画たらしめている最も重要なポイントは、もちろん監督と脚本の力量もある。
が、恵達という時代を繋ぐ重要なキャラクター、この映画の構造からすると最も重要な役の演者に登川誠仁という人を得たというところにあると思う。
この配役、慧眼と云って良いと思うのだが、いかがだろうか。