マルハチと呼んでいた友達がいる。
旅先で会ったヤツだ。
旅先で会ったと云っても10年も前の話だ。
10年ひと昔と云うが、確かに10年はひと昔。
東京に出てきてからは一度も会ってないので、8年は会ってないことになるか。
そのマルハチから手紙がきた。
ネパールのカトマンドゥからだ。
ちょっと驚いた。
まず、宛先の住所が以前のものになっている。
「そういや前の住所はこれだったな」と懐かしさがこみあげてくる。
こみあげてくるのはどうだっていい。
引っ越してから3年も経つのに、郵便物を転送してくれんだな。
他国のことは知らないが、日本の郵便制度はあなどれない。
ま、それもいいとして、前の住所しか知らないところに、ボクとマルハチの間に横たわる長年の断絶を感じた。
そんな新住所を知らせることも忘れていたつれない断絶野郎に、律義に手紙を送ってくるマルハチは心優しき男であるが、たいへん無口なくせに時折すさまじく毒に満ちたことを云ったりして、ひじょうにボク好みな人物なのである。
しかし、稀に見る人見知りだったりもする。ま、人見知りかどうかは関係ない。
手紙を開封すると、再生紙っぽい粗悪な便箋4枚にビッシリとなんか書いてある。
人生相談でもおっぱじめようとしているのかしらん、と思い身構えたが、オレがカトマンドゥにたどり着くまでの艱難辛苦の道をとくと読め、という内容のようだ。
船で上海に渡りチベット、ネパールと移動し、途中、高山病に見舞われながらゴキブリに襲われ自分は子供と遊ぶのが好きで宿代値切るのに失敗し昔とかわらず日本語しかわかりません、が、旅はいいです。
なるほど。
要約すると「いろいろあったが、旅はいい」ということだな、なるほど。
もっと要約してみると「今、いい」ってところだろうか、と書いた本人からすると書きがいがないというか、ミもフタもない読み手であるが、8月に成田に入るので会いましょう、と書いてあって何故かドッキンした。
なんせ8年会ってないのである。
8年も空白があれば、無口だったマルハチがオシャベリ機関車になっていてもおかしくはない。
100年先でもインターネットとは無縁だろうと思っていたマルハチが、光ケーブル常時接続自作PCクロックアップ必須野郎になっててもおかしくないのが、8年という歳月の重みである。
そんな歳月の重みをひしと感じつつ思う。
果たして「会いましょう」と書いたマルハチは、空白の歳月を思いドッキンしなかったのだろうか?
8年の間にボクの身長が20センチ伸びて体重150キロの恐るべき巨漢化していたり、ヒップホップを口ずさみながら街をねり歩くことがクールだと信じて疑わないイカレポンチになってたり、ことによったらホームレスになっているかもしれない。
そうは考えなかったのだろうか。
マルハチの知らぬ間に8歳の子の親になっており「よぉ〜し、今日はパパ頑張ってカレー作っちゃうぞぉ!」なんて腕まくりしていたが離婚し、さらに再婚してまた離婚現在4児の父無職、なんてことになってるかもしれない、と頭によぎらせなかったのだろうか。
それではお元気で!
と結ばれた手紙からは「よぎらせなかった」という答えしか導きだせなかった。