筆者のデーヴ・グロスマンは米国陸軍中佐、レンジャー部隊、ウエスト・ポイント陸軍士官学校心理学・軍事社会学教授、アーカンソー州立大学軍事学教授を歴任し、本書は米国ウエスト・ポイント陸軍士官学校や同空軍士官学校の教科書としても使用されている名著と云うべき一冊。
本来、人間には、同類を殺すことには強烈な抵抗感がある。
それを、兵士として、人間を殺す場としての戦場に送りだすとはどういうことなのか。どのように、殺人に慣れされていくことができるのか。そのためにはいかなる心身の訓練が必要になるのか。
心理学者にして歴史学者、そして軍人でもあった著者が、戦場というリアルな現場の視線から人間の暗部をえぐり、兵士の立場から答える。
米国ウエスト・ポイント陸軍士官学校や同空軍軍士官学校の教科書として使用されている戦慄の研究書。
グロスマンは本書によりピューリッツァー賞候補にノミネートもされている。
その内容は、「基本的に人は人を殺すことができない」というものである。
まず驚かされるのは、
「第二次大戦までは15〜20パーセントの兵士しか敵に向かって発砲していなかった。」
というところである。
つまり、兵士の8割は敵を攻撃することなく戦場を後にするというのである。
ほとんどの兵士は、撃つふりをしてあらぬ方向に銃口を向け、仲間の救出だとか銃弾を補充する役回りを演じることで、人を殺す機会を回避していたのである。
これは単純に臆病からくるものではなく、戦場においては、上記のような役回りの方が危険度が高い場合もあり、兵士もそのことは重々承知の上でやっていたのである。
これはいったい何なのか?
その答えが「基本的に人は人を殺すことができない」というものである。
もちろんこの原則はあらゆる場面に適用できるものではない。
自分が相手を殺した、相手が同じ人間である、と認識できる範囲において人は人を殺すことに大きな抵抗感を感じ、発砲できなくなるのである。
第二次世界大戦を描く戦争映画を観てみると、あらゆる兵士が敵を殺そうと戦っているが、実際はそういうものではなかった、というのが現実のようである。
しかし、朝鮮戦争では55%に、ベトナム戦争では兵士の90パーセント以上が発砲するようになっていた。
何故そうなったか。
「人は人を殺すことができない」という現実を踏まえ、米軍(今では世界中の軍隊が)は戦場に送りだす若者には「条件付け」とか「プログラミング」と呼べるような訓練をほどこすようになったからだ。
このような「条件付け」は実は現代社会に広がってきているとグロスマンは指摘し、その広がり危惧をし、こう語っている。
ランボー、インディ・ジョーンズ、ルーク・スカイウォーカー、ジェームズ・ボンドのうえに築かれた文化は、戦闘や殺人は平気でできると信じたがる。
誰かを敵と宣言すれば、大義のため国のため、兵士は良心の呵責もなくその相手をきれいさっぱり地球上から消し去ることができると。
他の若者を殺すために若者を遠い国へ送り出すとき、社会はいったいどういうことをしているのか。
多くの意味で、そのことと正面から向き合うのはあまりにも苦しいことなのである。
実際、こうしたエンターテインメントの広がりが悪影響を及ぼしているのかどうかはよくわからないが、少なくとも好影響は及ぼしてないだろうな、と思うのだがどうだろうか。
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